防災と暮らし

1月17日阪神淡路大震災から29年が経ちます。今年は元旦から能登半島地震で大変な災害が起きてしまいました。
何もできない。何ができるか。
今まで29年前の震災についてあえて振り返る事をしませんでした。それは、自分が人助けや街の復興に直接関わらず何もできなかったからだと思います。ただ、改めて何か感じるものや伝えられる事があるかもしれないと思い記録に残す事にしました。つたない文章ですが最後まで読んで頂ければ幸いです。
まず私は高校生だったので父に当時の事を聞きました。
父の体験
1995年1月17日午前5時46分。成人の日の翌朝、阪神淡路大震災が突然起きた。
自分が暮らしていたのは、昔大阪で商売をしていた祖母が病弱な息子(自分の父)のために当時、畑しか無かった芦屋市に建てた築60年の木造家屋だった。
その日はいつもどおり朝5時45分に起床、一階のトイレに入った途端何かゴォーという音がして突然激しく揺れ出した。動けない、家全体が何か粉々に空中分解するように激しく上下前後左右に揺れる。大袈裟ではなく、地球が破壊されたような感じがした。
ミキサーの中に放り込まれたようで、動きたくても動けない。トイレの中で体が撹拌されるような感じだった。体がその激しい勢いで扉の外に放り出されたことを覚えている。 まず、家族は何処にいるのか?生命は?生か?死か?
驚いていたり寝ぼけていたり様々な様子だったが、母、妻、子供たち皆無事で安堵した。
2階の窓から見える景色は、あっちこっちの場所から煙が上がり、まるでテレビで見た戦争中の空襲のような風景。消防のサイレンが連続して鳴り響き、決して鳴り止むことはない。大変なことになったということが誰の目にも感じられていた。
自宅の被害状況は、屋根瓦が半分以上粉々になって、庭や裏通路に散乱している。風呂場周辺の柱が斜めになり宙に浮いて、いつ崩れてもおかしくないような状態、2階外壁モルタル(何十年か前に台風で傷んで、モルタルで補修した部分)が全部剥がれ落ちていた。 家の中は階段がねじれ踏み板が抜けていたり、家具があちこちで倒れ、鋼製ロッカーは、バッサリと私がさっきまで寝ていた布団のうえに覆いかぶさって倒れていた。あと1分起きるのが遅かったらと思うとゾッとした。
ガス•水道は止まり電話は不通、唯一電気は繋がっていた為こたつで暖をとり、米は毎朝炊けるようにタイマーセットしてあったので、持ち運びしやすいよう妻がラップでおにぎりを作った。風呂の水を残していたのでトイレの水に利用した。近隣の方々も家は潰れたが自力で脱出し皆無事だった。ある人は「地元の建設会社で建てたのに簡単につぶれてしまった。クレームを言いにいく」と言っていたが、もちろん連絡が取れる状況ではなかった。
しばらくして10年程前に借金をして建てた大阪の貸しビルは大丈夫だろうか?もし潰れていたら…と思うと居ても立っても居られなくなり、家を出て大阪に向かった。阪神高速芦屋インターのスロープを登ろうとしてはっと気がついたこのスロープは根元から落ちてしまっている。下道で東へ進むと、30cm以上の段差があり、また別の道に向かうと途中家が崩れて道路が塞がっていたり、あたりの道路を毛布を被ってもうろうと歩いている人たちが大勢いて、なかなか前に進めない。
ふとJRの線路を見るとぐちゃぐちゃで土台ごと壊れているところが目に入りこれは当分電車も動かないなあ、えらいことになったなあと思った。大阪に行くのはあきらめて自宅に引き返す途中コンビニで食料を買って帰ろうと思いコンビニに入ると店内は停電で水浸しカウンターに店員さんが登って商品とお金の受け渡しをしている状態。それでも床に落ちた弁当の中から上の方の水に濡れてなさそうなものを選んで家に帰った。

しばらくして、使用可能な公衆電話が数台あると聞き訪れてみると長蛇の列。仕事の関係者にビルの様子を聞いてみようと思った。その列の後ろの方に知り合いのお嬢さんがおられたので「長い列ですね、どこに電話されるですか?」と尋ねたら、「家が壊れて父が生き埋めになっているんです」「それで119にずっと電話してるんですけど来てくれないんです。」と言われたので何も言えずに家に帰った。夕方になり、やはりどうしても大阪のビルが気になり何としても自分の建てたビルを確認しに行くと決意して再度車を走らせた。途中つぶれた家屋やマンション、電気が消えて斜めになった信号機、今にも倒れそうな電柱、何もかもぐちゃぐちゃで平衡感覚を失うような状態で大阪目指してひたすら走り、武庫川を越えると少しまともな世界に、そしてさらに、淀川を越えると、いつもの街の様子だった。
大阪のビルはほとんど何もなく無事だったが、ほっと一息つく間もなくビルの電話が鳴り妻からだった。「近所から火が出て、火の粉が飛んでくるから、集会所に全員で避難する!」とのこと。直ぐに引き返さないといけない!真夜中にまた、芦屋の自宅へ向け車で走った。自宅に着くと宝塚市に住む姉が車で飼い犬も含め皆を迎えに来てくれており、自分も姉の家に向かった。途中、姉の知り合いのガソリンスタンドでガソリンを入れてもらった。宝塚市の姉の家は特に被害が無かったがライフライン(水とガス、電話)が使えなかった。トイレの水は近所の側溝からすくって使っていた。側溝から水を汲んでポリ容器何個かに入れて、車に積んで持ち帰る。この作業は結構足腰にこたえる辛い仕事だったが、私はほとんど、大阪へ行ったり、仮住まいを探し回っていたので、この作業をやったのはうちの家族では娘と息子だった。
そして地震発生から数日後、ようやく大阪から神戸市六甲に住む妻の実家に電話する事ができた。六甲の実家(岩の上に建つ古い木造家屋)は意外にも住める状態だったが、義姉夫婦の(実家のすぐそば)鉄筋コンクリートのマンションは途中の階が潰れて住めない為、家族4人で実家に身を寄せ計9人で水もガスもない所で身を寄せ合って過ごしており、大阪に避難したいがガソリンがどこにもなく動けないとの事。自分が大阪からガソリンを購入して持っていかなくてはと思いガソリンスタンドへ聞くと「灯油と違いガソリンはポリ容器に入れて、売る訳にはいかない」専用の密閉容器が必要だと言われた。そこで、近隣の琺瑯の会社へ行き、社長に完全密閉容器がないか相談した。お茶を入れる特殊な密閉容器を5個ほど購入。ガソリンスタンドで不純を含まないよう新品のプラスチックポンプを購入して車への注入する事にした。くれぐれも注意するよういわれ、その他ポット5つに暖かい湯を入れて、六甲に向けて走った。
神戸へつながる国道は一般車通行禁止で、どの車両も「緊急物資」の貼り紙をして走っていた。私の車はそれを貼っていなかったが、緊急物資に違いはない!堂々と突っ走ろうと思いその車の中に紛れて走った。約半日かかり六甲の家に着いた。皆寄り添うように、不安気に暮らしていた。ガソリン注入の危険なことと、言われた注意事項を伝えて帰宅した。翌日六甲から9人で大阪へ避難する事ができたようだった。
この後、自分たちも大阪府吹田市で貸してくれるマンションが見つかり一息つくことができた。地震発生から約1週間の出来事だった。
地震の被害
この地震で死者6434人 負傷者4万3792人 全壊した住宅は10万4906棟(2006年5月19日総務省消防庁調べ)
私が思うこと
「関西は地震が無いから暮らしやすい」と言われてきた結果、地震に備えている人や建物も少なく被害が大きくなってしまいました。神戸三ノ宮駅の駅ビル、大丸百貨店、そごう百貨店、阪急百貨店、新聞会館、映画館、三宮センター街すべて全壊。
私が住んでいた地域だけでなく、出かけていた街までもなくなってしまいました。(なぜか戦前から建っている御影公会堂は無事でした)昭和の木造家屋で暮らしていた私たちも、死と隣り合わせで、たまたま生きていたという状況です。多くの方が亡くなり負傷したこと、これを記録に残す事でいつどこでも起きる可能性がある災害を、明日は我が身と感じてもらうために伝える事が大切だと感じています。
NHKアナウンサー住田功一氏の書籍「語り継ぎたい。命の尊さ」阪神淡路大震災ノートより。
地域の絆が助ける力になる
大切なのは「一人ひとりが、できることからする」近隣の人へ声掛けをしたり、的確な情報収集をする。「ここに人がいます」というように大きく紙や壁に書いて目印をつくるなど、人と人とのつながりは一番大切です。
五感で感じる
地震発生後は暗闇で静かな状態でも耳を傾けると誰かが助けを呼んでいるかもしれません。
また、ガス管が破裂してガスのにおいが充満している可能性もあります。そして目から沢山の情報が入ってきても頭がついていかず、中々行動に移せない事が多いのが現実です。そんな時、声を出して状況整理しながら周囲の人と声を掛け合うことで共有認識しやすくなります。
柔軟な対応
水がでない。給水車もしばらく来ないとき、使える水は無いか、風呂の水、ろ過装置、川の水。
救急車が来ない。運転できる車はないか、他に連絡する手段はないか、などこれがダメならこれはどうかと諦めず代用できるものを考える。
最後になりましたが能登半島地震で被災された方に心よりお見舞い申し上げます。一人でも多くの方が助かり、少しでも早く日常生活が送れるよう願っております。
